2009年12月27日日曜日

Living with Joy





喜びをもって生きること

それはきっと

泣く者と一緒に泣き

喜ぶ者と一緒に喜ぶこと
 
 
壊れてしまった関係もたくさんある
 
愛したくてもなかなか愛することのできない人もたくさんいる
 
自分の本当の姿を見るとき
 
何ともいえない無力感に陥る
 
惨めさ、悲惨さ、心にこびりついた劣等感
  
こうした弱さは
 
いつになったら乗り越えられるのだろうか
 
もしかしたら、それらは乗り越えることなく
 
一部分残しておかれるものもあるのかもしれない
  
 
しかし
 
十字架にかかった神の御子の愛が
 
2000年の時空を超えて
 
僕を貫き
 
僕の弱ささえも包むとき
 
僕は
 
泣く者と一緒に泣き
 
喜ぶ者と一緒に喜ぶことのできる者となる
 
 
これは神秘としか
 
言い様がない
 
そしてここに
 
この世が決して与えることのできない
 
「喜び」がある

2009年12月16日水曜日

妻がいないとつまんない



これは別にしゃれではないのだが、妻がいないと何だかつまんない。

昨日から、妻は2泊の小旅行に出ていて不在だ。いろいろと用事もあり、独身の女友達の家を泊まり歩いているのだ。
 
先ほど電話で話したら、向こうは大変充実しているらしい。こっちは正直、全然充実していない。あまりにも充実していないので、久しぶりのこのブログを更新することにした。
 
正直言うと、妻がこの小旅行に行く前、これでネットやりたい放題だと心の中でちょっと思った。
 
ところが、昨晩はネットをやっていてもちっとも面白くなかった。
 
それはきっと普段はいろいろなサイトもみながらも、無意識のうちに何かしら妻と会話をしているからかもしれないと思った。。「あのさあ、だれだれのブログ久しぶりに更新されてあったけれど、今回はなかなか面白かったよ」などと、知らずにたわいのない会話をしているから楽しいかもしれない。
 
独身の頃は、それなりに一人の世界を楽しめた時期があった。しかし僕の場合、30代の中半くらいに限界が来た。
 
そのころ、近所に住んでいたニューヨーク出身のアメリカ人が急にふらっと夜遊びに来ることがあった。彼はいろいろと自分の人生や信仰について語り、僕は大体聞き役だったのだが、あるとき彼は僕に一つ質問した。「君は結局何をしたいんだい」。そのとき、僕は少し考えて、「そうだね、結婚がしたいかな」と答えた。
 
そのように答えた瞬間、僕は自分の人生がもはや一人では前に進まなくなっていることに深く気付いたのだと思う。その1年後くらいだろうか。今の家内と付き合い始めたのは。
 
とても短い間だが、こうして一人になってみると、その頃のことも思い出されて、伴侶が与えられている恵みをもう一度想起させられる。
 
僕のことはさておき、妻が今日泊まっているところは昔からの大親友の家で、これからビデオ上映会するそうだ。明日はちゃんと帰って来てくれるかな...

2009年9月30日水曜日

ぎりぎりセーフで9月も何とか更新しました




















今日更新しないと、9月中は一度も更新しなかったことになるよ、


と妻に言われて、急遽更新することにしました。


書くことはたくさんあるのですが、何と言うか、なかなかそれがかけないんですよね。


この前山に行きましたとか、この前釣り行きましたとか。


そう、それで実はこの前連休の最後の日、釣りに行きました。


妻がもともと釣りが好きで、去年伊豆に行ったとき、一緒に初めて釣りをしたのですが、一年ぶりに釣りしに行きました。


場所は本牧の海釣り公園。ここが結構気持ちのいい場所で、桟橋から海をボーっと眺めているだけでも楽しいです。


サビキ釣りで、あじを狙ったのですが、この日はかなり釣果が低く、僕たちも釣れませんでした。


隣の小学生の竿にはぼらが引っかかったのですが、ぼらがだいぶ暴れたため、僕たちの糸も絡まってしまいました。けれど、ぼらを海から引き上げてから、糸が切れてしまったのですが、少しだけ釣った気分を味わうには味わいました。


何も釣れなかったのですが、でもとても何だか爽快な気分にはなりました。


夫婦で釣りにいくことはいいことです。この趣味なら末永く一緒にやっていけるかもしれません。まあ、あまり頻繁に行くことはないでしょうけれど。


妻はお風呂に入ると言っていたのですが、横で寝てしまいました。


ところで、来週は、僕もやっと夏休みをとります。というか、夏休みをとることができなかったので、やっと有給休暇をまとめてとります。


予定は、韓国旅行です!

2009年8月20日木曜日

最近は定時に帰っています

最近は、何とか仕事を6時までに終えて、家に帰っています。
 
6時過ぎに出ると、早くて7時半には家に帰れるので、妻とゆっくり食事ができます。
 
今日は7時45分ごろに家に帰ってきたのですが、一緒に食事をしながら、いろいろな話しができました。
 
本来、人間は日が沈む頃に仕事を終え、家族との団欒を楽しみ、疲れをとって、ぐっすり寝て、また力を得て次の日精力的に仕事に向かうのが自然なのでしょう。
 
こうした自然のリズムで働くことがなかなか難しい世の中ですが、その中で、最近は何とか仕事を早く片付けられる状況になっているのことは、本当に感謝です。

2009年7月2日木曜日

骨がひとつだに折られることがない


 

最近はとかく悩みが多かった。
 
会社の業績が悪化し、全社員3ヶ月間給料が一律20パーセントカットになった。それに伴い、人員整理も行われ、僕と親しくしていた同僚2人に加え、5人ほどリストラに。
 
従業員と経営側との間でちょっとした争議にもなった。
 
今ようやく落ち着いてきて、給与カットされた分は年末には返ってくることにはなっているが、やはり、同僚のリストラは精神的に大きな打撃だった。
 
それに加え、アメリカにいる弟が今就職難で生活が困窮している。少しばかりは援助したが、困窮した生活を送る弟のことを思うと、何とも気が重い。
 
こんなことをブログで書いても、読む方もうんざりするだろうから、書かなかった。が、書いてしまった。人間、やはり心の中に溜まったことは吐き出した方がよさそうだ。
 
こうした中で一つの聖書のことばが僕の心をとらえた。


「正しい者には災いが多い。
 
しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。
 
主は彼の骨をことごとく守られる。
 
そのひとつだに折られることはない。
 
(詩篇34篇20、21節 - 口語訳)」
 
 
正しい者はには災いが多い。なるほど、そうなのか。僕は決して、自分を「正しい者」であるとは思わないが、しかし、災いや苦労は多いものなのか、と、このみことばを読んで妙に納得してしまった。
 
確かに考えてみれば、聖書に登場する人物は、実に多くの災い、苦労を経験している。
 
モーセ、ダビテ、エリヤ、イザヤ、数えたらきりがない。
 
使途パウロにいたっては、
 
「ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、うえ渇き、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。なおいろいろの事があった外に、日々わたしにせまってくる諸教会の心配ごとがある。(第2コリント人への手紙 11章24-28節)」
 
と、まさに苦難のオンパレードである。しかし、彼が、
 
「もし誇らねばならないのなら、私は自分の弱さを誇ろう」
 
とこの箇所で続けて言っているのは、素晴らしいと思う。
 
そして、イエス様は、まさに災いと苦難の究極の形、「十字架」を耐え忍ばれた。
 
しかし、彼らがこうした苦難を経ても、「骨一つ折られなかったこと」も事実だ。ある意味、この詩篇は、イエスさまが十字架の上で骨が折られることがなかったことも預言しているのかもしれない。
 
苦難というものは、それぞれが耐えられるキャパシティーがあるので、比べることはできないが、2000年前の使徒の時代も大変であれば、現代日本のサラリーマン生活もなかなか大変だ。どっちが大変かといえば、まあ、やはり使徒の時代だろうと思うが、しかし、全体的に鉛色の空が覆いかぶさっているかのような今の時代で、サラリーマン生活をするのもなかなか大変だ。比べるのは無意味かもしれない。
 
しかし、その「すべての中から助け出されて骨ひとつ折られない」というのは素晴らしいと思う。これは、まさに主の約束なのであるから。
 
まあ、とにかくもう少し楽しいことを書けるといいのだが、僕はどうしても、なぜか文章を書くとこういう調子になってしまう。
 
前にも書いたが、妻は、いろいろと日常の出来事を楽しく書けるから、これは本当に才能だと思う。
 
まあ、いろいろあった中で妻が支えてくれたのは、本当に大きかった。やはり、結婚というのもよいものである。
 
また、今月給料カットされる中で、妻に臨時収入があった。まさに主は必要を備えてくださった!

2009年5月10日日曜日

また何でもないことなのだが、



今日の夕飯はとても美味しかった。
 
かつおの刺身サラダ、あつあげのオリーブ炒め、もやしとにらの味噌汁、たくあんとごはん。それから、梅酒。
 
世の中では、特別豪華というほどの食事ではないのかもしれないが、僕にはとても豪華で美味しく感じられた。
 
今週末はとてもゆっくりできた。特に何をしたというわけでもなかったのだが、妻と一緒に過ごすだけで楽しかった。
 
 
「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。

繰り返して言うが、喜びなさい。

あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。

主は近い。

何事も思い煩ってはならない。

ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。

そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」
 
(新約聖書 ピリピ人への手紙4章4節ー7節)

2009年4月4日土曜日

特に何もなかったけれどいい日だった


 
 今日は、特に何もなかったが、いい日だった。

 でも今週は妻がちょっと疲れがたまってせいか、いろいろと考え込んでしまって、少し調子が悪かった。

 一日家でのんびりしていたのだが、夕方になって心機一転して、根岸森林公園に夜桜を見にいった。雨も降っているせいか、人はほとんどいなかったけれど、雨の中の夜桜もなかなかよかった。

 その後、いつも行く小さなスーパー上州屋に買出しに行った。明日は妻が昔から付き合っている宣教師の家族が遊びに来るので、いろいろと食材を買い込んだ。

 夕飯が僕がジンジャオロースをつくって、妻がスープをつくった。これもなかなかおいしかった。

 それから、妻は意を決して「いふり湯」に行くことに。僕は、とりあえず途中まで送ることにした。

 やっぱり銭湯のお風呂はとてもよかったらしい。お風呂で、神様が「私はあなたといつも一緒にいたよ」、と語ってくださったそうだ。 10円のマッサージチェアも2回やったそうだ。

 今日は特に何でもない日だったけれど、とてもいい日だった。

 写真はちょっとピンボケしているが、根岸森林公園の夜桜。

2009年3月28日土曜日

行き詰まり



妻は、日常の中で起こったいろいろな楽しい出来事をブログに軽妙な文章で書き綴るのだが、僕はどうもそれができない。
 
いろいろと楽しいことはあるし、妻との生活の中で学ぶこと、感じることは沢山あるのだが、それがなかなかまとまった文章として結晶していかない。
 
いや、むしろ僕は何かに行き詰っているとき、思い悩んでいるときに、何か文章を書きたくなる。
 
今日は、妻がある友人の朗読会に行ったので、僕は家でひとりパソコンに向かいながら、いろいろと思い悩んでいた。またいろいろと行き詰っている。
 
しかし、思い起こせば、これまでの37年間の人生の中で行き詰まったことは何度もあった。 
 
妻と最初にデートをしたとき、僕は失業中だった。その上、教会もあまり行っていなかった。社会の中でも、いわゆる「キリスト教世界」の中でも居場所がないように感じてしまい、とても深い挫折感を抱いていた。 
 
その最初のデートでは一緒に映画を観に行ったのだが、帰りに喫茶店に入って一緒に飲み物を飲んでいたとき、僕は彼女に言った。僕は社会でも、キリスト教の世界でも両方で失敗した人間なんだよ、と。 
   
そのとき妻は言ってくれた。Williamくんは、そんなことで終わる人ではないよ、と。
 
このことばがそのときとても嬉しかった。こういうことを言ってくれた女性は初めてだったので、僕は彼女と結婚したのかもしれない。 
 
今こうして曲がりなりにも普通に仕事をし、日曜日には妻と一緒に教会の礼拝に出席している。実はとても幸せな生活をしているのだろう。 
 
今の行き詰まりに対しても、イエス様はきっとささやくような小さな声でやさしく言ってくださっているのだろう。 
 
お前はいつまでもそこに留まることはないよ、 
 
しばらくの間だけ、苦しむかもしれないが、 
 
やがて死ぬべきものが死んだとき、 
 
また新しく私と一緒に生きるようになるよ、と。

2009年1月31日土曜日

아내를 사랑하는 일



昨年年末、ボーナスが出たので、電子ピアノを買ってしまった。今日は土曜日で休日。ポロポロと練習してみた。「ジャズから始めるピアノ生活」という、初心者向けのCD付き教則本をAmazonで見つけたので買ってみたら、本当にわかりやすくていい本だった。最初の練習曲ははAmazing Graceだった。
 
今日は残念ながら、うちのお嫁さんは家にいないので、この夫の奮闘を見守ることはできない。今週から結婚に関するセミナーの通訳を務めていて、毎日東京の三鷹まで通っている。だが、今週は毎日一緒に家を出て横浜まで一緒に電車に乗ることができたので、朝っぱらからデート気分で楽しかった。
 
ところで、今日1月31日は愛妻の日のようだ。まあ、僕は1年間365日愛妻の日なので、関係はないが...(笑)この日は、日比谷公園で、旦那達が奥さんに向かって何か一言叫ぶというイベントがあるそうだ。しかし、奥さんに向かって「ごめん」と叫ぶ夫がけっこう多いとのこと。うん、それも何だかうなづける...
 
と、書いているうちに、妻から「待ち合わせ場所どこにする」とのメールが入ってきた。今日は横浜で待ち合わせして、伊勢崎町にある回転寿司屋でおごってもらうという話になっている。何だかこの不景気の世の中でうちのお嫁さんはなぜかはぶりがよく、物入りがあったそうだ。
 
ところで、今朝読んだ聖書のことば。

あなたがたのうちで、知恵があり物分りのよい人は、だれであるか。
 
その人は、知恵にかなう柔和な行いをしていることを、よい生活によって示すがよい。
 
しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。
  
また、真理にそむいて偽ってはならない。
 

そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。
 
ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為がある。
 
しかし上からの知恵は第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである。

(ヤコブの手紙3章13-18節、口語訳)


しばらく前にうちは口語訳聖書を購入し、それを朝と寝る前に読んでいるのだが、この口語訳が実にストレートに心に響く。
一週間の社会生活の中で、自分の中にいつ知れず、いろいろな苦い思いが芽生えてしまう。それは最初は自分でも気づかないほど小さくても、やがて成長して、心の中で根を張ってしまう。そうした思いを聖書は、「地に属し、肉に属し、悪魔的である」と言っているのだ。何と妥協なきストレートなことばだろうか。

しかし、平和、寛容、温順さは、上からの知恵だと聖書は語っている。上からの知恵ということは、天地万物を創造された神様が与える知恵のことだ。家庭においても、職場においても、平和をつくり出すには、やはり神様からの知恵がなくてはならない。
 
家庭は妻のおかげで結構平和なのだが、職場はね...いろいろと葛藤があるもので。今日は、自分の中にある苦い根を再び悔い改め、平和をつくり出せる者になれるよう、祈らされる日でもあった。
 
さて、今から家を出て、妻と伊勢崎町で待ち合わせ!「愛妻の日」なのだが、今日は僕が愛を受ける側に...まあ、それもいいか!